ボーナスステージ三軒茶屋

高田馬場から引っ越した後、大須観音からも引っ越しました。

妄想日記 : 円城塔を皮切りに

『全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。

しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかるという保障は全くのところ存在しない。これがあなたの望んだ本です、という活字の並びは存在しうる。今、こうして存在しているように。

そして勿論、それはあなたの望んだ本ではない。』

      『Self Reference ENGINE』

 

円城塔、という作家とその作品から想像できるいろいろな妄想について今日は書きたい。アイデンティティ不安の話はあまりにも壮大になりすぎていて時間を要するためだ。とはいえ円城塔についても時間と文章量がかかるだろうけど。

 

 

◆おちょくられる快感

 

円城塔に限らず、2010年代以降のSFは『サイエンス・フィクション』ではなく、『スペキュレイティブ・フィクション』に舵を切りつつあるのではないか、と思う。つまり、宇宙や時間やロボット兵器など、いわゆる「ゴリッゴリのハードSF」的なジャンルが飽和しつつある、語りつくされつつあるのでは、という意味で。

 

そこで次の目標として、塔氏は『文学とはなにか』という問題に立ち向かっている。文学という構造体そのものを崩す、という試みを行っている。

 

彼の本にはオチがない。壮大な物語もない。ただその世界感を説明することに終始する。言うなれば全てが第一章で、全てがオチになっている。そしてその中で、彼は冒頭にあるようなことを何度も何度も問いかける。彼が自分の作品を「小説」だと思っているのかどうかも怪しいくらいで、ある種の思考実験に近い。

 

なので、Self Reference ENGINEについて「あらすじを語る」という行為は意味がないだけでなく、不可能だ。彼が表現しようとしているのは「言葉や文章の機能」であって、「表現」ではないから。そういう意味で、円城塔はこれまでの小説表現に対抗しようとしているし、悪く言えばおちょくっているようにも見える。

 

円城塔の本を読んでいると無力感に苛まれる。ふつう、SFでもミステリでも純文学でもライトノベルだろうと、読者はある程度「先を想像しながら」読書をする。そうすることは作者も想定済みだし、それによってミスリードや、あっと驚くどんでん返しが発生しうる。つまり物語という構造においては、ある程度の『作者と読者の認識の摺り合わせ』が必須のプロセスになる。

 

しかし円城塔はそれを許さない。一切の予断や先読みを許容しない。彼の本を読むとき、ただわたしたちは「文字列を追いかけ、それを咀嚼し理解する」というプロセスしか許されていない。そういう意味での無力感をとても感じる。でもそれが気持ち良いし、いろいろなことを妄想することができる本、というものはそれだけで価値がある。

 

 

◆知性とは何か?

 

円城塔の著作に『これはペンです』というものがある。自動文章生成プログラムの発明によって莫大な富を得て、今は遠くに住むという叔父から送られてくるテキストの数々を紹介しまくる、という内容。ここでも冒頭の「全ての可能な文字列」の主張が繰り返される。読者は「これは叔父が、叔父の意思によって生成したテキストなのか?」という疑問と戦うとともに、「仮にこれが叔父が作った文章ではなかったとして、だから何だというのか?」という疑問ともせめぎあうことになる。

 

“叔父は文字だ。文字通り。”という本書の冒頭文があらわすとおり、「別に叔父が人間であろうとなかろうと、どうでも良い」のだ。全ては「全ての可能な文字列」の順列組み合わせにすぎないのだから。

 

文章から知性を感じる、ということは、少なくともその文章が人類によって書かれたものである、ということを証明してきた。これまでは。

 

 

チューリングテスト

 

2014年、史上初めて、コンピューターがチューリングテストに合格した。チューリングテストとは「対象Aが、人間であるかコンピューターであるか見分けをつける」テストであり、リドリー・スコットの映画『ブレードランナー』でも人とアンドロイドを見分ける手段として用いられている。

 

コンピューターの表現や受け答えが、人類と見分けがつかなくなったらしい。もはや言葉も思考も、人類だけのものではなくなってしまった。例えば何年か後に、大ヒットを飛ばす作品が出たとして、その作者が人工知能であるとわかったとき、人類はどんな反応をすれば良いのだろうか?チェスや将棋のようなパターン認識のゲームを人口知能が卒業し、いよいよ人間の内面に迫る表現世界に入学してきたとき、表現やコンテンツ産業はどのように生きてゆけばよいのか。

 

これは音楽についても同じことが言える。音階は「全ての可能な文字列」よりもパターンが少なく、網羅が比較的簡単である。スケールや音階学によって「音楽によって想起される感情とそのパターン」が分析されつくし、今や先進的な音楽の担い手としてノイズ・ミュージック等が台頭してきた現代では、例えば形式的なポップミュージックやバロック期の音楽であれば、プログラムによって自動生成することが可能になってきている。その際、例えば作曲家や作詞家がプログラムではない、と一体誰が証明できるのか?

 

 

◆サールの悪魔

 

チューリングテストに意義を申し立てる主張のひとつとして、サールによる「中国語の部屋」という思考実験がある。単純化して言ってしまうと、チューリングの言う知性とは「とても高度なボット」であり、それを知性とは呼べない、という説だ。

確かに、現在の人工知能の進化の方向性としては、「膨大にこなされたケーススタディから導き出される“より確からしい”選択が知性っぽく見える」というものだ。IBMのWatsonもこれに該当する。

 

しかし、人間の知性が「超高度なボット」ではない、と何故言えるのか?人間は経験的な生き物だし、自分の経験の外から引き出しを持ってくることはできない。俗に「発想」と呼ぶものも、自分の引き出しの中からの「順列組み合わせ」だ。

 

「全ての可能な発想」をプログラムが解析し終えたとき、人間は「自由な発想こそ人間の個性」とのたまうことができるだろうか。『全ての可能な文字列』から円城塔は、物語と呼べそうなものを抽出した。それがプログラムにはできない、となぜ言えるのか?

 

 

◆読者が物語を規定する

 

『全ての可能な文字列』についてはある程度書きたい妄想は書いた。

 

予想通り結構な分量になってしまったので、「読書という行為について」はまたの機会に書こうと思う。

『あなたがこの本を読まなければ、被害者が死ぬこともなかったし犯人が罪に問われることもなかった』

という文言について書こうと思う。一体だれが被害者を殺したことになるのか?