ボーナスステージ三軒茶屋

高田馬場から引っ越した後、大須観音からも引っ越しました。

祝祭と共同体について

▼祭りの機能

 

お祭りが好きだ。夏祭りには行かなくなってしまって久しいけども、子供の頃はお祭りが本当に好きだったし、例えば文化祭の準備等も好きだった。社会人になってからも、変な話だけど例えば絶対に受注したいお客様向けの提案書をみんなで徹夜で作ったり、受注したあとの宴会は本当に掛け値なしに楽しかった。これも広い意味では祭りの性質を持っていると思う。

祭り、というかイベントには定義があって、

不特定多数の人間が、特定目的のために集合する場

というのがそれだ。ここで重要なのは「特定目的」であって、それは「不特定多数の人間」が共通して受け入れるべき、あるいは達成すべきゴールであると言える。神社やお寺のお祭りであれば例えば鎮魂だったり、五穀豊穣だったり。文化祭ならお客さんが喜んでくれること、提案書の例では受注というゴールがある。

お祭りには、「みんなが願いたい(あるいは手に入れたい)ゴールに向かって、みんなで進んでいるという共通認識を得る」という機能がある。

 

▼祭りと「マツリゴト」

 

じゃあ皆が手に入れたいゴールってなんですかという話だけれど、これが実は結構難しい。皆が手に入れたいと思うためには、ゴール設定にはいくつか条件がある。

・みんなが、「不特定多数の人間」を「自分を含むみんな」であると認識する(=集団への帰属を信じる)
・ゴールが達成可能であると信じる
・ゴールを達成すると、何かしらいいことがあると信じる

これを一番大きな規模で常に祭りとして開催しているのが国という共同体で、この人たちはつまり「自分を含むみんな(国民)が、達成可能なGDP成長を実現すれば、より良い暮らしができる」という祭りをやっていることになる。だから政治は政(=マツリゴト)なのだ。国民が自分を国民だと認識しなくなったり、共同体を魅力的だと思わなくなったり、ゴールなんて達成できないでしょと思ったり、あるいはゴールを達成しても自分達には何も還元されないと考えるようならこのお祭りは終了する。つまり信じてもらえなくなったら終わりなのだ。

 

▼楽しくお祭りに参加してもらうために

 

そんなわけで、お祭りの主催者はいろんなことを考える。テーマは「どうすればみんなが主体的に、かつ熱狂的にお祭りに参加してくれるか?」である。

例えば国みたいな大きい共同体では、強制的に祭りに参加させることはさほど難しくない。祭りに参加することを、それも熱狂的に参加することを義務付けてしまえばいい。そうして開かれたお祭りが日本では大東亜共栄圏祭りという名前だったわけだけど、この手のお祭りはいまだに世界のそこらじゅうで、それこそ名前は変わったけれども日本でも随時起こり続けている。コロナ祭りとか。

ではそれよりミクロな共同体、例えば会社やその中の部署では?この規模では、祭りの開催はどんどん難しくなっている。それは昔と違って「別にこの共同体にいなくてもいい」と所属者が思っているからで、昔だったら終身雇用が当たり前だったのでそれこそ国っぽい祭りの開催が容易だった。

今、ミクロな単位で祭りを開催するためには、共同体意識と、楽しさと、ご褒美感を同時に演出する必要があって、それがいわゆるチーム運営というやつなのだろうと思われる。

 

▼チームという共同体について

 

チームという共同体で祭りを開くに当たって、一番イージーなのは「考えさせない」ことだ。これは結構色々と手がある。

・あなたの仕事はこれだけです(他のことをやらないように!)
・上手にできたら褒められます(あるいは、より大きなお金がもらえます)
・上手にできなかったり、他の手法でやってしまった場合は村八分です

とか。ただしこういうイージーな手法を取ると、高確率で祭りの開催者側が村八分にされる。今のお祭りは、主催者が強いわけではない、ということも特徴のひとつだ。

じゃあどうするのか?というのは実は全然回答が出ていなくて、というかそんな回答があったら全てのプロジェクトやチームがうまく回るはずで、それが達成されてしまったらゼロサムゲーム自体が成り立たなくなるので、結局答えはありません。したがってまずは例えば、

・そもそも主催者がめちゃくちゃ楽しそう
・主催者が、より上位の主催者(例えば経営者)から報酬を得ているっぽい
・主催者のゴール達成を、共同体のゴール達成に紐付ける
・ゴールがそもそも「みんなで頑張れば達成できる」っぽい

みたいな手法が出てくる。こうすると、少なくとも「お祭りが成功している」感覚の演出は可能だ。しかし続けて「お祭りに自分が関わっている」ことと、「このお祭りを続けたい」ことをどう感じてもらうか?が課題として出てくる。面白いもので、これらを解決できた時に、お祭りが成功しているかどうかはわからない。帰属意識だけは高まったが全然お祭りとして成功していない、となると、高まったはずの帰属意識は急速に萎む。別にこの共同体に属してなくたって死ぬわけじゃないし、より面白いお祭りを開いてくれる共同体に参加する(あるいは、自分自身でお祭りを開催する)方が全然よかったりするわけだ。

 

まあこのお祭りの主催者が私ですって話なのですが、これは大変に面白い仕事です。20代でこれやってたらキャパの少なさ故に死んでたなと思いますが、今ようやく身の丈にあった仕事になったなーと、やや感慨深い気持ちでもいます。

 

▼共同体に絡めとられる、ということ

つまり何が言いたいかというと、『ミッドサマー』を観たい、ということです。