ボーナスステージ三軒茶屋

高田馬場から引っ越した後、大須観音からも引っ越しました。

“無個性な大群”の恐怖:『ゾンビ』

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『Zombie/Dawn of the Dead

1978年/イタリア映画/115分

【監督・脚本】ジョージ・A・ロメロ

 

 

ブログ本番の記事がいきなりゾンビについてです。ドン引きですね。

さて、ゾンビについて考えてみるときに同時に考えてしまうのは、「人間とは何か」です。初回から数回、ゾンビについて考えてみることにします。

 

まず、本作品に限らず映画表現全体における『ゾンビ』とは何か?ある作品ではそれは未知のウィルスによってもたらされる病気であり、またある作品ではマッドな科学者の実験の成れの果てであったりしますが、それは単純にギミックとしてのゾンビの定義であって、ゾンビ表現であらねばならない必然性ではありません(「なぜゾンビになってしまったのか?」の原因が物語最大の謎解きである場合もありますが)。

 

ゾンビは、例えばバイオハザードみたいに巨大化したり触手を持ったりしない限り、単体では恐ろしくはない存在です。体当たりするだけで倒れるし、全速力で追ってきたりもしません。

 

ではなぜゾンビがそんなに怖いのか?例えばゾンビが世界に一匹(一人?)しかいないなら、あまり怖くありません。ジョーズやエイリアンやゴジラとは違い、噛まれないようにさえ気をつけていればあまり怖くはありません(しかし“噛まれると感染する”というのは、いつも思うけれど一体どういう理屈なんだろう?)。

 

問題は彼らが、圧倒的多数であることです。

 

殆どの映画において、人間(主人公)は『運よく感染を免れた立場』として描かれ、世界の大半はゾンビだらけになっています。主人公は運よく生き残った数少ない仲間達と生き残りの手段を探し、仲間の感染に涙しつつも殺害したり、最終的にユートピアを見つけたり見つけなかったりするわけですが、人間が圧倒的数の暴力でもってゾンビをミンチにしていく、という展開はあまり多くありません。

 

ゾンビは圧倒的多数であることで、はじめて恐怖の対象としてのアイデンティティを確立するわけです。

 

この『ゾンビ』という映画でも、主人公達が逃げ込んだショッピングセンターをうろつく一人ひとりのゾンビは「滑稽なもの」として描写されます。「人」でもなく「ゾンビ一般」でもない単体としてのゾンビは「何者でもないモノ」としてしか扱われないからです。

 

この「他の個体と群れることで初めて存在として確立する」というゾンビの性格が私はたまらなく好きで、おそらくそれは友達が全然居なかった中学校時代のメンタルとリンクしたんだろうなあ、と感じています。おかげさまで27歳の今でも充分に根暗です。

 

 

いきなりゾンビの話から始まってしまいましたが、おそらくあと3回ほど、ゾンビの話ばかりします。次回は「みんなゾンビでよくない?長いものには巻かれちゃえよ」という主張の是非について(予定)です。