ボーナスステージ三軒茶屋

高田馬場から引っ越した後、大須観音からも引っ越しました。

「物語を受け入れる」について

◆ヨシムラくんは如何にして瞑想を受け入れたのか

ここ数ヶ月のテーマは「物語を読者や視聴者が受け入れる(許容する)にあたって、必要な機能やギミックは何か?」で、これは友人のヨシムラくんがきっかけだった。

ヨシムラくんは前職で知り合った友人なのだけど、かなり徹底し確立した持論を持っている。形としての言葉で表現するならば「哲学なき規範に鉄槌あれ」だったり、「理解のためには実感が必要である」みたいな(少しズレてる、と彼に言われそうだけども)ものだと私は理解している。私はそんな彼のロックで不器用なところが非常に好きで、たまにそれが故に面倒に巻き込まれたりもするわけなんだけども、全体としてはいつも非常に刺激を受けています。

そんな彼がある時「瞑想」とか「マインドフルネス」とか言い始めたので、大変に驚き、一体どうしてしまったのかとかなり狼狽した。しかし色々と話を聞いてみると、彼の中では彼なりに筋道が通っていて、「理解のための実感」が伴っていた。

とはいえその筋道を他の誰かが同じように受け止められるか、というと多分そうでもなくて、そんなわけで最近のテーマとして上記が持ち上がってくる、というわけです。

 

◆物語を受け入れること:定義

物語を受け入れる、というのは例えば、小説に対して「説得力がある」とか「納得性が高い」とか、大雑把に言うとそういう現象のことをここでは言う。例えば悟空がフリーザを倒すための「説得力」として宇宙船の中での特訓の描写があったり、銃弾を胸ポケットで受け止めることの「納得性」を高めるために、ポケットに入れられるペンダントがいかに大事なものか、と言う描写が挿入されたり、そういう現象のことを言います。

例えば「特筆すべきことはないが、何故か主人公が女の子からモテモテである」ことを物語として受け入れられない面倒くさい人種が世の中にはいて、それが私です。

 

◆物語を受け入れるために:代償行為

物語を受け入れる・あるいはその物語を「正当性がある」ものとして観るためには、ある種の代償行為が必要になるケースが多くあります。スーパーヒーローものの場合、その多くは特訓だったり、大切な人との死別だったりしますが、それは視聴者や読者に対し「彼はこれくらいマイナスな状態なのだから、プラスのことがあってもいいよね?」というエクスキューズでもあります。あるいはダークヒーローの場合は、その(罪深くも)英雄的な行為を正当化する伏線だったりもします。ミステリ等の場合はそれ自体が謎の核心であり、それを如何に上手に隠すか、が腕の見せ所にもなり得ます。

このように我々は(少なくとも私は)「わけもなく◯◯する」を正面から受け入れられず、良い物語にはそのカタルシスの源泉となるマイナスを、悪い物語にはその救済となるプラスを求める傾向があり、どちらかが行き過ぎてしまうと「ご都合主義だ」とか「鬱エンドだ」とか言われるものになってしまうわけです。

 

ー「悲しむものは幸いなり。彼らは慰められるであろう。いつ慰められるのかは誰も言ってくれなかった」(『侍女の物語』,1985)

 

◆「マトリックス」:個人が物語を信じること

キアヌリーブス演じるトーマス・アンダーソンが「ネオ」として覚醒するにあたり、求められていたのが「自分が救世主である」と信じることでした。救世主であるためには、とか救世とは何なのか、は最終的にはどうでもよくなることで、ただ「そういうものなのだ」と受け入れること、それがネオとしての覚醒が求める条件でした。この時、観客も同時に「そういうものなのか」と思わせてしまうギミックがマトリックスという映画のすごいところで、ものすごく単純に言ってしまうと「プログラムをハックする(あるいはオーバークロックする/クラックする)ってこういうことだよ」ぐらいの話なのですが、このへんのシステム的な話とマトリックスの絡みはいくらでも他のブログとか記事があるので割愛します。とにかく重要なのは「ネオが自分の中の物語を信じること」で、ヒーローが誕生したのでした、ということであり、そのことを我々観客も了解した、ということです。

 

ー「最初のマトリックスは完璧な人間世界として作られたと知っているか?そこでは苦しむものはなく、誰もが幸せだった。だが、それは悲劇を招いた。誰も世界を受け入れなかった、」エージェント・スミス(『The Matrix』,1999) 

 

◆「ミスター・ガラス」:世界がそれを発見すること

現代社会が、一見荒唐無稽に思えるような物語を受け入れるためにはどうすれば良いか?というテーマで最近面白かったのは「ミスター・ガラス」だ。例えば「ウォッチメン」では、人間社会が超人を受け入れるためにDr.マンハッタンというギミックが登場した。それまではちょっと強い一般人のコスプレ自警集団にしか過ぎなかったものが「ヒーロー」として認知されたのは彼のおかげであって、その意味では「ウォッチメン」にも特筆すべき点がすごく多かった。しかし(Dr.マンハッタンのオリジンがそれなりに説得力を持っているものとはいえ)それは結局SF的なギミックだったし、ヒーローや人間社会をよりよく描写するための潤滑装置としての面白さだった。(冷戦中の話である、ということも考慮しなければいけないし)

「ミスター・ガラス」はその点、とても真摯に『現実世界におけるヒーローもの:オリジン』を描いていると思う。彼らそれぞれのヒーローとしての特殊能力(怪力・多重人格と暴力性・並外れた知能)が「ギリギリ、超自然的な能力ではない」こと、精神病棟でのカウンセリング(あるいは洗脳)が、観客へのカウンセリング(あるいは洗脳)であること、「自分の能力を信じた」ブルースウィリスが、ドアをこじ開けられたこと。そしてそれら全てが「もしかしてこれは全てサミュエル・L・ジャクソン演じるイライジャが仕組んだだけのギミックなのではないか?」と観客に疑わせること。

イライジャの哲学はそもそも物語を受け入れることだった。曰く「自分のように脆弱な存在がいるのなら、どこかに強靭なスーパーヒーローがいるに違いない」。そして「ヒーローがいるなら、ヴィランもどこかにいるはずだ」。これは前述のプラスとマイナスの考え方に共通する部分があるし、物語を(この場合は半ば妄信的に)信じる力の現出だ。

ヒーローはある日突然オオサカタワーで戦ったりしない。それは最初、ただの異端として、異能としてのみ語られるのだ。それがシャマラン監督の考えるヒーローのオリジンであり、そこに至るまでの過程もとても丁寧に描かれており、説得力があった。極端な話、映画3本分の集約なわけだからそれも当然なのかもしれないけれど。

 

余談だけれど、シャマラン監督のテーマは基本的にいつもここにある。「人々が自分の中に流れる物語を自覚し、その主人公としてのストーリーを歩むために」だ。人気は全然なかったし私も結構しょうもねえなと思って観たけど「レディ・イン・ザ・ウォーター」もこれがテーマだった(そもそもヒロインの名前が「ストーリー」だ。直球っぷりがすごい)。今から思うと私がこれをしょうもねえなと思ったのは、その物語の返報性(つまり特訓とか伏線とか、そういうもの)の不足が原因だったのだ。

 

◆補遺:アメコミについて補足

アメコミ(アメリカンコミック)では、キャラクターは作者のではなく、出版社の所有物となる。日本では「麦わらのルフィ」は原則として尾田栄一郎しか書いちゃいけないけど、アメリカでは「スパイダーマン」はMARVEL社のものなので、マーベルの中であれば別にどこの作品に出てもいい。そんなわけでアベンジャーズとかが成立しても良いことになる。

 

オンゴーイング:日本でいうジャンプの連載みたいな、基本的なお話。アメリカでは多くの場合「いきなりヒーローがヒーローとして出てくる」ため、後述のオリジンが発行されるかどうかは「いきなり出てきたヒーローが、人気になれるかどうか」が結構重要。アメリカンコミックヒーローの生存競争激しい。

リミテッド:オンゴーイングとは別に、独立して語られるストーリー群のこと。多くの場合、ランドマーク(マンハッタンとか、自由の女神とか)が最終決戦の舞台になり、結構ハデな演出がある。

オリジン:ヒーローやヴィラン(悪役)が、「いかにそうなりえたか」を語るお話。オンゴーイングで人気が出たヒーローに、物語の重み付けや深掘りのために書かれることが多い。ミスターガラスでイライジャが死に際に言った「これは起源の話だったんだ」はこれのこと。

 

◆「物語がない」というすごさもある

全然話は変わるけど、今日「天気の子」を観てきた。そこには物語がなかった。戦慄するくらい徹底した、そして異物が徹底的に排除された、ただのボーイミーツガールだった。恋する男の子と、可愛い女の子がいれば、世界とか秩序とか物語とか、そういうものは全て「どうでもいいこと」になってしまうのだった。これにはある種とても感動した。

「どうでもよくないことが増えるということ」と「関係性の中で生きること」みたいなテーマがふんわり浮かんできたので、詳しく書くのはまた今度。