正直者はすぐに死ぬ/ゴジラについて
◆paionia@名古屋
paioniaがバンドとしては2年くらいぶりに名古屋にやってきた。土日だったので観に行ったのだけれども、いよいよもって彼らの「怒りによって駆動するエンジン」に驚嘆せざるを得ない。何年も前に、たぶん大学を留年してフラフラしていた時だと思うけれど、vo.の高橋さんと話す機会があって、そのとき彼らはドラマ―を探していて、もしよかったらどうかと(たぶん友人として)誘ってくれたことがあった。僕は当時、大学を留年したこととアルバイトに起因する椎間板ヘルニアを患っていたことから「世の中に対する不良債権感」が最大まで高まっており、正直なところこの期におよんで就職をせずにバンドでやっていく、ということに恐怖したし、何よりも彼らのようにいろんなことに怒りを感じることができなくなっていた。
早い話が逃げたことになる。高校に進む時も大学を選ぶときも就職するときでさえ、僕はツブしの効く道を選んできた。その結果がコレかよと最近はよく思う。人と話をしていると皆「いかに自分の意志でもって自分の人生を切り開いてきたか」について話すので世の中立派な人ばかりだと思うし、paioniaを観に行ってさらに精神をやられた気がする。
ライブが終わった後にvo.高橋さんとba.菅野さんと手羽先を食いながら話した。高橋さんが中座したとき菅野さんからライブの感想を求められ、上記のようなことを伝えたところ、彼らも相変わらずぬかるみの中にいる、というような話をしてくれた。そしてまたドラマ―が不在になるのだそうだ。僕は菅野さんに「paioniaの怒りというか、そういうエネルギーを極小のノイズで受け止められる/共感できるドラマ―は、そこまで多くはないと思う」と伝えた。彼は「先代のドラマ―がいなくなったのもまさにそういう理由である」というようなことを言ったように思う。酒に酔っていたのかその場の空気によっていたのかはわからないけれど、僕も最近の局所的な怒りとか不条理とか、そういうものを伝えたように思う。とにかく酔っぱらっていて覚えていない。しかし彼らのエネルギーに比べると、とにかくノイズまみれのエネルギーであったのだろうなーと思う。覚えていなくてよかった、心から。
“売り物の俺は”というpaioniaの曲があって、どうもそういった怒りとかそういうものを切り売りしています、というような曲であるように思う。
◆ゴジラ
そういう心持ちでゴジラ(今封切られているアニメのやつ)を観に行ったわけだけど、いまひとつ盛り上がれなかった。自分の心理を別にしたときの、盛り上がらなかった原因は以下だと思う。
・現代じゃない
まずはこれが非常に大きい。というかこれに尽きる。今作の舞台は人類がかつてゴジラとの生存競争に負けて宇宙空間に逃げた後、やっぱり地球に帰りてぇなあということで戻って来たところ二万年くらい経ってました、という舞台設定であるため、ビルとか車とか逃げ惑う群衆とかが存在しない。『原生林を舞台に未来ロボットとゴジラがドンパチ』という映画であるため、ゴジラのスケール感の根拠となる比較対象がない。これはいただけない。
ゴジラという映画は平和ボケしている人類に鉄槌を下すところから始まって、今では現実に辟易している人々の代わりに現実をぶっ壊してくれる存在として(少なくとも僕は)捉えられたりもしているので、「もう地球はゴジラのものになっていて、ゴジラは異物である人類を迎撃する側です」という視点は確かに新しかったが、正直なところ思っていたのと違う感が大きくなってしまったように思う。
・人類がアホだし危機感がイマイチ
まあゴジラシリーズの人類は基本全員アホだろ、というのはあるにせよ、台詞回しの所為なのか、いまひとつ緊迫感がなかった。ゴジラと戦うところは確かにドッカンドッカンしてて良い感じではあるものの、のんびりとした印象を受ける。何故か。まずひとり、完全に余裕をかましてる奴がいるということと、中盤のわりと早い時期に「もしゴジラを倒せなかった場合、我々はどうなるのか?」という問いに答えが与えられてしまったことによる。ゴジラを倒す、という命題が、『長期の宇宙巡航技術を人類が既に持っている』ことと、上記の答えによって希薄になる。結果としてゴジラを倒すという命題は最終的に一個人のエゴになり下がり、ゴジラからしたら快適な地球ライフを送っていたところにチョロチョロと蠅みたいな奴らが群がってきて邪魔で仕方ねぇなくらいな認識であると思う。
ゴジラに何を求めるか?僕の場合は『すべての楽観をぶち壊す恐怖』としてのゴジラ、また『せめて虚構の中でも、現実をぶっ壊してくれる代弁者』としてのゴジラだ。これまでゴジラは(迷走を含みつつも)概ねそういうエンターテイメントを含んでいたと思うが、今作だとそういう風味が薄かった、ということなんだろうと思う。
以上です。ご無沙汰しておりました。
インターネットがやってきた
◆自宅にインターネットがなかった
名古屋に引っ越してきて2年半、自宅にインターネット回線を引かずに生きてきた。鎌倉の実家に住んでいたころ、また東京都北区にひとりで住んでいたころと、光回線のインターネットを引いていたが、名古屋に引っ越してきてからは仕事以外の場でPCを触らずに、スマホの軟弱な回線だけで生活していた。
理由は2つあって、ひとつめは名古屋にこんなに長い間住む事になるとは思っていなかったこと。最初はせいぜい2年くらいだろうと思っていたからだ。ふたつめは、インターネットがあると「やらなくてもよいこと」に割く時間が増えすぎてしまうということ。意味もないインターネットサーフィンや、動画視聴など。事実、この2年は自宅にインターネットがないことで考え事をする時間や読書をする時間が増えた。これはものすごく文化的によいことだった。気になった事についてひととおり考えてからそれでも解決しなかった場合に仕方なくスマホを取り出す、というプロセスが非常に大事だったのだと思う。
◆いかにして誘惑に負けたか
今日、ヨドバシカメラに行ってワイマックスを契約してきた。何故かといえば遠隔地(東京)の人と連絡を頻繁に取ることになったり、その過程でドキュメントを送ったり送られたりといったことが増える事が想定されたからだった。
契約してきたワイマックスを持って古いMacBookを繋げてみたところ、あらゆるアプリの更新が入りいきなり通信料が3Gを超したのでヤベエと思っているところです。
そういうわけで自宅にインターネットがやってきた。ブログの更新を細々とまたはじめようと思っています。
まさかダイエットについて書くことになるとは
◆太りやすくなった
この2週間くらい、ガラにも無く大変仕事が忙しい。徹夜をしたり休日出勤したりしているし、今この文章も会社で書いている。そんなわけで深夜まで仕事して、24時間営業の牛丼食べて3時間寝るみたいな生活してたら2週間で3kgも太ってしまったので正直非常にびびりました。生まれて初めて体重が65kgを超し、175cmの身長からするとまあ普通ではあるんだけどちょっと血の気が引いています。牛丼という食べ物は本当にやばくて、あれはコレステロール爆弾なのでできる限り牛丼屋に近づかないようにしようと思いました。
年齢とともに基礎代謝が下がるのは当然のことなので、食事も運動量が変わっていない(昔から殆ど運動をしない。体育も嫌いだった)以上、勝手に太っていく体になってしまったということですね。
◆対策
じゃあ運動しろよって皆さん思うかもしれませんけどそれは大きな間違いです。運動ってのはダイエットにおける最終手段であって、なぜなら運動したら普通にやせるからな。そういう手段を最初に持ってくるのは間違っている。他の手段を試してみて全てダメだった時に「仕方ねえ!」くらいの究極のコンティンジェンシー、それが運動というやつなのです。戦隊ヒーローものだって最初からロボット合体して出てこないじゃないですか。最初に徒手空拳、それから各個のロボット、それでもダメなら合体ロボなわけで、そこのところをわかっていない人が多すぎます。
ではどうするか。
①食べない
これは私にとっては意外にイージーで、完全に一人で過ごしているときは一日一食そば食べるくらいで結構ふつうに生きていけることが現状、わかっています。ならばなぜ深夜に牛丼なんか食ってんだという話ですが、これはチームで仕事をしているからですね。飲み会なんかもそうですが、完全に自分をメンテナンスしたいのであれば人と関わることが一番のリスクであると言えるでしょう。とはいえ会社組織で生きている以上は完全な制限は無理なので、とりあえず白米を食べないとか、〆のラーメンに付き合うときは餃子だけ食ってるとか、そういう生活を目指します。
②飲み物を変える
朝とか仕事中とかは基本的に水とコーヒーをずっと飲んでいますが、よく考えたらコーヒーって一割くらい油なんで、コーヒーやめたら割と勝手に痩せてくんじゃねえかと思うわけです。今も別に眠気覚ましのコーヒーというよりは味が好きだからという理由で飲んでいるだけなので、基本的には水と烏龍茶とかにしようかと思います。
とはいえ休日に家でダラダラと淹れるドリップコーヒーはとてもうまいので、土日の贅沢としてそれは継続しようかと思っています。
③サウナ
基礎代謝を上げる、というより少なとも20代前半くらいのパフォーマンスに戻す試み。これは最近友人に教えてもらったのだけれど、とにかくものすごく気持ちよいので週に一回はサウナに行こうと思います。
おそらくあと2年くらいで頭皮の方も退化が始まるはずなので、デブでハゲててメガネ、という最悪の事態を免れるべく、まずは7月末までに62kgに戻す、というアクションを取っていこうと思います。
妄想日記 : 円城塔を皮切りに
『全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。
しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかるという保障は全くのところ存在しない。これがあなたの望んだ本です、という活字の並びは存在しうる。今、こうして存在しているように。
そして勿論、それはあなたの望んだ本ではない。』
『Self Reference ENGINE』
円城塔、という作家とその作品から想像できるいろいろな妄想について今日は書きたい。アイデンティティ不安の話はあまりにも壮大になりすぎていて時間を要するためだ。とはいえ円城塔についても時間と文章量がかかるだろうけど。
◆おちょくられる快感
円城塔に限らず、2010年代以降のSFは『サイエンス・フィクション』ではなく、『スペキュレイティブ・フィクション』に舵を切りつつあるのではないか、と思う。つまり、宇宙や時間やロボット兵器など、いわゆる「ゴリッゴリのハードSF」的なジャンルが飽和しつつある、語りつくされつつあるのでは、という意味で。
そこで次の目標として、塔氏は『文学とはなにか』という問題に立ち向かっている。文学という構造体そのものを崩す、という試みを行っている。
彼の本にはオチがない。壮大な物語もない。ただその世界感を説明することに終始する。言うなれば全てが第一章で、全てがオチになっている。そしてその中で、彼は冒頭にあるようなことを何度も何度も問いかける。彼が自分の作品を「小説」だと思っているのかどうかも怪しいくらいで、ある種の思考実験に近い。
なので、Self Reference ENGINEについて「あらすじを語る」という行為は意味がないだけでなく、不可能だ。彼が表現しようとしているのは「言葉や文章の機能」であって、「表現」ではないから。そういう意味で、円城塔はこれまでの小説表現に対抗しようとしているし、悪く言えばおちょくっているようにも見える。
円城塔の本を読んでいると無力感に苛まれる。ふつう、SFでもミステリでも純文学でもライトノベルだろうと、読者はある程度「先を想像しながら」読書をする。そうすることは作者も想定済みだし、それによってミスリードや、あっと驚くどんでん返しが発生しうる。つまり物語という構造においては、ある程度の『作者と読者の認識の摺り合わせ』が必須のプロセスになる。
しかし円城塔はそれを許さない。一切の予断や先読みを許容しない。彼の本を読むとき、ただわたしたちは「文字列を追いかけ、それを咀嚼し理解する」というプロセスしか許されていない。そういう意味での無力感をとても感じる。でもそれが気持ち良いし、いろいろなことを妄想することができる本、というものはそれだけで価値がある。
◆知性とは何か?
円城塔の著作に『これはペンです』というものがある。自動文章生成プログラムの発明によって莫大な富を得て、今は遠くに住むという叔父から送られてくるテキストの数々を紹介しまくる、という内容。ここでも冒頭の「全ての可能な文字列」の主張が繰り返される。読者は「これは叔父が、叔父の意思によって生成したテキストなのか?」という疑問と戦うとともに、「仮にこれが叔父が作った文章ではなかったとして、だから何だというのか?」という疑問ともせめぎあうことになる。
“叔父は文字だ。文字通り。”という本書の冒頭文があらわすとおり、「別に叔父が人間であろうとなかろうと、どうでも良い」のだ。全ては「全ての可能な文字列」の順列組み合わせにすぎないのだから。
文章から知性を感じる、ということは、少なくともその文章が人類によって書かれたものである、ということを証明してきた。これまでは。
2014年、史上初めて、コンピューターがチューリングテストに合格した。チューリングテストとは「対象Aが、人間であるかコンピューターであるか見分けをつける」テストであり、リドリー・スコットの映画『ブレードランナー』でも人とアンドロイドを見分ける手段として用いられている。
コンピューターの表現や受け答えが、人類と見分けがつかなくなったらしい。もはや言葉も思考も、人類だけのものではなくなってしまった。例えば何年か後に、大ヒットを飛ばす作品が出たとして、その作者が人工知能であるとわかったとき、人類はどんな反応をすれば良いのだろうか?チェスや将棋のようなパターン認識のゲームを人口知能が卒業し、いよいよ人間の内面に迫る表現世界に入学してきたとき、表現やコンテンツ産業はどのように生きてゆけばよいのか。
これは音楽についても同じことが言える。音階は「全ての可能な文字列」よりもパターンが少なく、網羅が比較的簡単である。スケールや音階学によって「音楽によって想起される感情とそのパターン」が分析されつくし、今や先進的な音楽の担い手としてノイズ・ミュージック等が台頭してきた現代では、例えば形式的なポップミュージックやバロック期の音楽であれば、プログラムによって自動生成することが可能になってきている。その際、例えば作曲家や作詞家がプログラムではない、と一体誰が証明できるのか?
◆サールの悪魔
チューリングテストに意義を申し立てる主張のひとつとして、サールによる「中国語の部屋」という思考実験がある。単純化して言ってしまうと、チューリングの言う知性とは「とても高度なボット」であり、それを知性とは呼べない、という説だ。
確かに、現在の人工知能の進化の方向性としては、「膨大にこなされたケーススタディから導き出される“より確からしい”選択が知性っぽく見える」というものだ。IBMのWatsonもこれに該当する。
しかし、人間の知性が「超高度なボット」ではない、と何故言えるのか?人間は経験的な生き物だし、自分の経験の外から引き出しを持ってくることはできない。俗に「発想」と呼ぶものも、自分の引き出しの中からの「順列組み合わせ」だ。
「全ての可能な発想」をプログラムが解析し終えたとき、人間は「自由な発想こそ人間の個性」とのたまうことができるだろうか。『全ての可能な文字列』から円城塔は、物語と呼べそうなものを抽出した。それがプログラムにはできない、となぜ言えるのか?
◆読者が物語を規定する
『全ての可能な文字列』についてはある程度書きたい妄想は書いた。
予想通り結構な分量になってしまったので、「読書という行為について」はまたの機会に書こうと思う。
『あなたがこの本を読まなければ、被害者が死ぬこともなかったし犯人が罪に問われることもなかった』
という文言について書こうと思う。一体だれが被害者を殺したことになるのか?
アイデンティティ不安:もろもろの材料
さて、今後数回に分けて(連続した記事とは限りません。その時々で気に入ったものの記事を挟む可能性もあります)、アイデンティティ不安について書こうと思っています。非常に難しいテーマで、私自身も27歳になってすらこの種の不安を抱えることがあります。どうなんだそれは。
アイデンティティという言葉自体、時代によって定義が揺れ動いてきた単語です。遡っていけばかの有名な「我思う、故に我あり」というところまで行き着くのですが、このブログはポップカルチャー作品からいろいろと理屈をこねくりまわすことを目的としているので、主に20世紀と21世紀の作品について扱います。
自分自身の中でも解の定まっていないテーマについて書くので、最終的な結論がどのようになるのか(あるいは回答が“そもそも出るのか”)分かりませんが、とりあえずは一回目として、以下に今後使おうと思っている材料と、ひとことでのまとめを書いておこうと思います。
◆『ユービック』/フィリップ・K・ディック著/洋書
・20世紀の典型的アイデンティティ不安、いわゆる「ディック感覚」と呼ばれるものについて。
◆アンディ・ウォーホルの作品群/アンディ・ウォーホル/絵画
・大量生産、大量消費されるアイコンによってむしろ個性を確立した例について。このあたりは「集団としてのアイデンティティ」という意味ではゾンビの話とかぶるかもしれません。
・これも原作はディックですが、おそらく映画版の方が多くを示唆している、という珍しい例だと思います。というか原作と映画がほぼ別物なので、原作については『ユービック』の方で軽く触れるつもりです。
◆『仮面学園』/小松隆志監督/邦画
・私が大好きなB級映画からもひとつ。B級に映画には時々、はっとするほど考えさせられてしまいます。そもそもの期待値が低いので裏切られた時のギャップがすごい、というだけかもしれませんが。
◆『Every Day is Exactly the Same』/NINE INCH NAILS/洋楽
・洋楽の歌詞です。この記事はたぶん短くなると思います(あるいは書かない)。
・「きっと何者にもなれないお前達に告げる」と全国のオタクに宣告したアニメーション。21世紀、それも日本におけるアイデンティティ不安の話として。たぶんこれは長くなります。
和書がないですが、とりあえず思いつくところはこれくらいでしょうか。
まずはまとめやすいところから。次回は『ユービック』について書くつもりでいます。
腐っても愛:『STACY』
『STACY』
2001年/日本映画/80分
【原作】大槻ケンヂ
【監督】友松直之
【脚本】大河原ちさと
ゾンビ関係の話を延々するのもどうかと思うので、今回でゾンビの話は一旦終わりにします。とにかくアホな映画です。まず原作:大槻ケンヂの時点で大変な期待が持てますね。この映画は、私が人生で始めて観たゾンビ映画です。
当時中学一年生だった私は、夜中にケーブルテレビでちょっとしたお色気シーンがあったりする映画を見たりするような、まあ標準的な少年でした。
『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』とか、リュック・ベッソンの『TAXI』とか、結果としてはいろいろと面白い映画に触れる良い機会になりましたが、その中で衝撃的かつ、一番私の人生を歪曲したであろう作品がこの映画です。
ある日突然、女子高生が大量死して何故か甦った(この甦った状態が「STACY」と呼ばれます)。ステイシーを無力化するには、肉体を少なくとも156(だかなんだか)個以上の肉片に分解しなければならず、またそうする権利は恋人か、家族にしか与えられません(ただし闇ルートでこの権利が売買されることはある)。また、女子高生たちがステイシーになる直前には、わけもなく多幸感に包まれ言動が支離滅裂になる『臨死遊戯状様(ニアデス・ハピネス)』と呼ばれる状態になります。
ステイシーになることを拒む女子高生たち。
ステイシーを刻むお手軽チェーンソーを売る通信販売番組。
自分の肉片を切り刻む権利を、愛する男にささげようとする女子高生たち。
ステイシーになる秘密を解き明かそうとする狂気の博士。
愛する娘を切り刻むことができず、国家権力に権利を売り渡す父親。
そして解き明かされるステイシーの謎。何故彼女達は腐ってしまったのか?
正直、筋書きについてあまり詳細に書く意味はこの映画にはありません。エロ・グロ・ナンセンス映画として、大変に素晴らしい映画です。筒井康隆演じるマッドサイエンティストの演技や、ステイシーたち(当時本物の女子高生達に特殊メイクを施して演じさせたそうです)の鬼気迫る演技。徐々に正気をなくしていく加藤夏希の演技。決して優れた映像作品ではありませんが、非常に愛おしい映画です。
さて、ゾンビの話はそろそろ終わります。次は映画以外の話でもしようかと思います。
お前は本当に人間か:『桐島、部活やめるってよ』
2012年/日本映画/103分
【原作】朝井リョウ
【監督】吉田大八
【脚本】吉田大八・喜安浩平
これまで2本の洋画から、「ゾンビとはいかなるものか」「何のメタファーとしてゾンビが描かれるのか」を書いてきました。
ゾンビとは衆愚の具現であり、「大きいものに巻かれて主体性のない人々」や「個としてのアイデンティティが確立できない人々」、「自堕落で怠惰で目的意識のない人々」の比喩として描かれることが(たとえコメディ映画であっても)殆どである、という話でした。
さて、翻って、なぜ『桐島』はゾンビ映画なのか?という点から今回の話を始めたいと思います。この映画は、大きく言えば高校生の青春群像劇です。物語を分析するキーワードとしては、大きく以下のようなものがあるでしょう。
・『ゴドーを待ちながら』との共通性
・『エレファント』へのオマージュ
・『藪の中』との共通性
・前田くん(神木隆之介)が撮る映画が『ゾンビ映画』であることの意味性
・教師の言う「身の回りのこと」と前田くんのそれとの乖離
この記事ではゾンビの話を扱うので、『ゴドーを待ちながら』と『藪の中』、『エレファント』については言及しません。というかそんなことどうでもいい。
元々の朝井リョウ氏による原作小説は、高校生の不安定な心理や夢や、少し斜に構えてしまう精神性、同調圧力などいわゆる「高校生あるある」が随所にちりばめられた爽やかな青春小説です。それが、吉田大八監督の手によって性格が大きく変わり、読解が非常に難しい映画になっています。個人的には原作よりも映画の方が好きです。
◆スクールカーストについて
なぜ『桐島』はゾンビ映画なのか?
それはこの映画が、「桐島くん無しには個性を得られない集団(ゾンビ)と、それを客観視する人間(前田くん)の関係性」の物語だからです。
神木隆之介さん演じる映画部の“前田くん”は映画オタクで、映画部全体もオタクの集まりです。そして彼らはスクールカーストの“外側に”います。
この、カーストの外側にいる、という描写は実はとても大切です。スクールカーストにおいては(学校においても差はあるでしょうが)例えばサッカー部とかバスケ部とか、アクティブな部活が高く、文化系の部活員が低い傾向がありますが、彼らはそのカーストの外にいるわけです。カーストの中に居る人々はその中の価値観が全てなので、基本的にカースト外の人の存在を認知しません。これは「映画部は排他されないレベルの認知度である」というスクールカーストの残酷さを描くと同時に「前田くんが映画部以外の面々を客観視できている」という記号にもなり、非常に優れた演出だなあと思います。
◆「身の回りのこと」のリアル、なぜ『ゾンビ映画』でなければダメなのか?
劇中で、前田くんは映画部顧問である教師から「ゾンビ映画なんて撮ってないでもっと身の回りのことを映画にしろ。学園生活だったり恋愛だったり、いくらでも材料はあるだろう」といった趣旨の指摘をされます。
それは高校教師としては当然の指摘であると思われます。ゾンビといえばスプラッター描写という認識(事実そうだけど)の人にとって、青少年がゾンビ映画にはまっている、というのはあまり好ましいことではありません。了見の狭い人なら「うちの生徒が大量殺人とかしたくなっちゃったらどうしよう」くらい考えるかもしれません。
しかし前田くんは、この教師の言い分には納得しません。なんだか適当な返事をしておきながら、勝手にゾンビ映画の撮影を継続します。
何故か?
それは、前田くんにとってゾンビ映画こそが「身の回りのこと」だからです。
前述のとおり、前田くんはカーストを認知していません。よって彼はカーストにおける価値観がわからず、不在の桐島によって振り回される人々に対しては『邪魔されている』程度のものです。ラストで前田くんが「こいつら全員食い殺せ!」と叫ぶのはその不満の発露であり、すごいカタルシスを観客にもたらします。トップ画の広告では『全員、桐島に振り回される』とありますが、映画部の面々だけは、桐島に振り回されていないのです。
そして、私たち観客はそれまでの過程によって、前田君以外の「桐島くんによってアイデンティティを得ている(と錯覚している)高校生」をゾンビ的なものとして観るように仕向けられています。
だからこそラスト、屋上のシーンで、登場人物全てを巻き込んだ映画が『ゾンビ映画』として成立します。前田くんにとっては教師の言う「身の回りのこと、半径一メートル以内のこと」がゾンビ映画であり、身の回りに居る人々がゾンビだったというわけです。
◆まとめ:前田くんの視点
朝井リョウ氏という小説家はアイデンティティ不安についての作品を多く書いています。『何者』という小説でも、就職活動に望む若者の不安が描かれ、『少女は卒業しない』という作品でも、“女子高生”というアイコンを剥ぎ取られる少女の不安が描かれます。そして言うまでもなく『桐島』においては“桐島くん”というアイデンティティを剥ぎ取られた高校生達の焦燥が描かれています。
昭和末期から平成初期に生まれた私達のような世代には、こういったアイデンティティ不安は割りと日常的なものであるように思います。高度に情報化された社会では、情報の取捨選択をしないかぎりあまりにも多くの情報が手に入りすぎてしまうため、「きっと何者にもなれない自分」を自覚(それは錯覚であることが多いけれど)しやすいのではないか。
だからこそ、この映画はそうした不安を持つ人々をゾンビとして描くのではないか、と私は思っています。前田くんのように、野球部のキャプテンのように、同調圧力やカーストといったゾンビの“感染源”に影響されない人がもっともアイデンティティを確立できている、という描写になっているのだと解釈しています。
映画宣材のポスター等では、前田くんが観客側に8mmのファインダーを向けているカットが使われています。カメラに映っている自分が前田くんにはゾンビに見えているのか、それとも生き残ってアイデンティティ不安と戦う人間なのかを考えさせる、とても上手い演出ですね。そしてこんなことを考える人は決定的に根暗なんだろうな、と思います。カーストの上位に居る人をある種醜悪に描いているので、きっとこの映画がつまらない人も一定数いるんだろうな、とも思います。
非常に長くなりました。
クソ真面目な話をしてしまったので、次回は日本のアホみたいなゾンビ映画の話をしたいと思います。ゾンビ関連は一旦、これで収束します。