ボーナスステージ三軒茶屋

高田馬場から引っ越した後、大須観音からも引っ越しました。

近況/考えること

◆理解とは何か?

ピーター・メンデルサンドの『本を読むときに何が起きているのか』を読んだ。

https://www.amazon.co.jp/dp/4845914522

 

我々が「理解」と呼ぶものの、なんと儚く頼りないものかを非常によく教えてくれる本だった。本を読むことで得られる理解は百者百様であるということ、ひとが「理解」と呼ぶものは、自分の文脈に照らしたときの理解でしかない、ということを繰り返し教えてくれる本だった。

だからこそ、人を理解する/少なくとも「相互理解できた」とお互いが思い込む(回りくどい言い方になるけども許していただきたい)ためには、より多くの人との共通点を持たなければならない、ということを再度実感した。あらゆる人との共通項を持つことで、あらゆる人との愉快なやりとりや関係が生じるはずだ。

真なるオリジナリティを前にして、他人は果たしてそれを理解できるのか?という主題は円城塔の時にも書いたけれども、完全な相互理解などあり得ない、ということを理解することは人とのコミュニケーションを少し楽にすると思う。ATフィールドのようなものだ。

 

◆洒落がわかる、ということ

ところで、例えばなしとしての『ATフィールドのようなものだ』とは何か?を理解できる人については、上の段落は「ああそういうことね」となる。理解できない人については、ATフィールドについて検索していただき却って手間となり、しかもエヴァンゲリオンの考察サイトとかに飛ばされてそもそも何のことを考えようとしていたのかがわからなくなる。これが対多コミュニケーションの難しいところで、理解を助けるためにした例え話がまったく役に立たないどころか、却って理解の足枷になることがある。だから『わかりやすい例え』の代表例として異性の話をしやすい、というのが対多数と対個人のコミュニケーションで差分を作ることをサボったおっさんの末路だったりする。

 

 

◆零號琴について

私のものごとの捉え方やコンテンツの受容、そして他者への評価において大きな位置を占めるのは上記の「洒落がわかるかどうか」だ。

判断基準としては結構ありふれており、平安時代からこの判断軸はある。藤原定家がルールを作ったとされる『本歌取り』という手法がそれだ。『本歌取り』は、似たような情景や気持ちを詠った短歌において、有名な歌人や短歌から句を持ってきても良い、あるいは持ってくることがあはれとされる手法で、これをやると周りの人から「ヒュ~、わかってる~」となるアレである。現代ではラップの世界で『サンプリング』としてよく知られるが、この「文脈において気の利いた洒落を言うこと」が私のコミュニケーションにおいてはかなり重視され、私がすべてのコンテンツの受容者であり、あらゆる人との共通の趣味や共有事項を作りたい、と考える根っこはそこにある。

 

飛浩隆の『零號琴』はまさに、「この本に含まれているものを、読者はどこまで想像できるか」という本であり、その意味で2018年のベスト小説であったと思える。

https://www.amazon.co.jp/dp/4152098066/

 

とにかく多くのオマージュやパロディ、サブカルチャーの意匠のオンパレードである。豪華絢爛なSF的悪戯けの極北とでも言うべき小説であり、アニメや特撮、漫画、そして何よりもSFファン以外には1ミリも受けないこと必至な小説であり、つまり完全に私向けの小説だった。

とはいえ、その意匠を100%の純度で享受できたのかと言われると全然自信がない。零號琴の世界では『想像力』が非常に重要なキーワードであるのだが、作者と読者の想像力がバランスする(つまり、作者が想像することを読者がある程度正確に想像する)ことができて初めて小説としてメッセージを持つ作品だった。『想像力』は転じて『創造力』となり、つまり作者と読者が共同して『創造』したものだけが本の中に現れる。そして共通の『想像力』が働かなかったものについては存在しなかったことになる(あるいは、『創造されなかった』ことになる)。

 

この構造は二重の意味で恐ろしい。ひとつ目は、共通の想像力がなくてもその小説を文章として読み進めることはできるし、しかもそれで物語としてきちんと完結してしまうからだ。料理に何が含まれているか知らなくとも、その料理で満腹になってしまえるように。どのような技術に支えられているかわからないまま、インターネットで物を買ってしまえるように。我々は一体どれほどの物事を見過ごしながら、どれだけの人間と共通認識を作れないまま、分かり合えないまま人生を送ってしまうことができてしまえるのだろう?

そしてもうひとつの恐ろしさは、あろうことか、読者の想像力が作者のそれを超克しうる、ということだ。作者が仕込んでいない仕掛けを、読者が自分の想像力でもって勝手に『創造』し、物語の枠組みの中に組み込んでしまうことがこの本では構造上、可能である。零號琴に限ってはこの現象は「作者の意図を読み違える」ことにはならない。読者が想像しうるものは何であれ創造されてしまう、という構造を、作者の飛浩隆氏は作成した。

 

 

ではこの本を『理解した』とはどういう状態のことを言うのか。

//以下無限ループ