ボーナスステージ三軒茶屋

高田馬場から引っ越した後、大須観音からも引っ越しました。

もう皆ゾンビでよくない?:『ショーン・オブ・ザ・デッド』

前回は「ゾンビは“たくさんいるから”怖い」という話を書きました。前述のように、この映画はジョージ・A・ロメロ監督という人が撮った映画ですが、ロメロ監督は「自分はゾンビ映画を撮っているが、人についての映画をいつも作っている」と述べています。

つまりどういうことかというと、『ゾンビ』という映画においては、1970年代の大衆消費社会の風刺として、ゾンビというメタファーが存在したわけです。群れに同調し、無目的にショッピングモールを徘徊する没個性な大衆をゾンビになぞらえたわけです。

 

この映画の意味性を真っ当に捉えるならば「ゾンビのようになってはいけない、我々は主体的に、自らの人生を生きなければならない」といったところですが、「でも少数派が躍起になってゾンビから逃げ回るより、いっそ多数派であるゾンビの方が楽じゃない?」という方向性に突っ走ってしまった映画があります。

 

イギリスのゾンビコメディ、『ショーン・オブ・ザ・デッド』がそれです。

 

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『SHAUN of the DEAD』

2004年/イギリス映画/99分

【監督・脚本】エドガー・ライト

 

 

この映画の主人公であるショーン君は、ニートです。家に居れば友人とプレステばかりしており、たまに彼女とデートに行くと言えば常に決まったパブにしか行かない、という驚くべきルーティンな生活を送っています。例によって世界がゾンビで染まってしまっても、「とりあえずパブで一杯やりながら助けを待とう」みたいな事を言い始める、とにかく自堕落で没個性で目的意識がなく、グダグダな人間です。彼女が居るということ自体驚き。

 

一方で、ゾンビは生前の習慣に従うので、やはりゾンビもパブで一杯やろうとします(『ゾンビ』における、ゾンビがショッピングモールに集まるのと同じ理屈です)。必然、パブにおけるゾンビと人間の戦い(というほど真剣なものではありませんが)が物語の主舞台になるわけですが、そこの描写はどうでもよいです。とても面白いけれど。

 

この映画における一番の主題は、

「ショーン君が人間であることにしがみつく意味はあるのか?」

であると思っています。

 

すでにゾンビっぽい生活習慣を送るショーン君にとって、ゾンビは物理的に腐っている以外は自分と特に変わらない存在です。物語を通して自分の人生の意味を見出して、人間らしく生まれ変わる!という映画であるならまだしも、特にそういうこともありません。どちらかといえば「ああ、別にもうゾンビがいたって良いや」というような、変な方向性の成長をします。映画の中でゲーオタの親友がゾンビになってしまうのですが、その親友も結局のところプレステやってるだけなので特に実害はなく、最終的にはショーン君と親友ゾンビが一緒にプレステやってる場面で終わります。

 

コメディ映画なので、そこまで社会風刺色が濃いわけでもないし、ロメロ監督の『ゾンビ』を現代の感覚で、イギリスの感覚で描いたらこうなりました、という話に過ぎないわけですが、ゾンビみたいな現代人が社会とどのように折り合いをつけていくのか、という経緯が素晴らしい映画です。

 

真面目なゾンビの話、ふざけたゾンビの話を書いたので、次は日本のゾンビの話を書こうと思います。