ボーナスステージ三軒茶屋

高田馬場から引っ越した後、大須観音からも引っ越しました。

祝祭と共同体について

▼祭りの機能

 

お祭りが好きだ。夏祭りには行かなくなってしまって久しいけども、子供の頃はお祭りが本当に好きだったし、例えば文化祭の準備等も好きだった。社会人になってからも、変な話だけど例えば絶対に受注したいお客様向けの提案書をみんなで徹夜で作ったり、受注したあとの宴会は本当に掛け値なしに楽しかった。これも広い意味では祭りの性質を持っていると思う。

祭り、というかイベントには定義があって、

不特定多数の人間が、特定目的のために集合する場

というのがそれだ。ここで重要なのは「特定目的」であって、それは「不特定多数の人間」が共通して受け入れるべき、あるいは達成すべきゴールであると言える。神社やお寺のお祭りであれば例えば鎮魂だったり、五穀豊穣だったり。文化祭ならお客さんが喜んでくれること、提案書の例では受注というゴールがある。

お祭りには、「みんなが願いたい(あるいは手に入れたい)ゴールに向かって、みんなで進んでいるという共通認識を得る」という機能がある。

 

▼祭りと「マツリゴト」

 

じゃあ皆が手に入れたいゴールってなんですかという話だけれど、これが実は結構難しい。皆が手に入れたいと思うためには、ゴール設定にはいくつか条件がある。

・みんなが、「不特定多数の人間」を「自分を含むみんな」であると認識する(=集団への帰属を信じる)
・ゴールが達成可能であると信じる
・ゴールを達成すると、何かしらいいことがあると信じる

これを一番大きな規模で常に祭りとして開催しているのが国という共同体で、この人たちはつまり「自分を含むみんな(国民)が、達成可能なGDP成長を実現すれば、より良い暮らしができる」という祭りをやっていることになる。だから政治は政(=マツリゴト)なのだ。国民が自分を国民だと認識しなくなったり、共同体を魅力的だと思わなくなったり、ゴールなんて達成できないでしょと思ったり、あるいはゴールを達成しても自分達には何も還元されないと考えるようならこのお祭りは終了する。つまり信じてもらえなくなったら終わりなのだ。

 

▼楽しくお祭りに参加してもらうために

 

そんなわけで、お祭りの主催者はいろんなことを考える。テーマは「どうすればみんなが主体的に、かつ熱狂的にお祭りに参加してくれるか?」である。

例えば国みたいな大きい共同体では、強制的に祭りに参加させることはさほど難しくない。祭りに参加することを、それも熱狂的に参加することを義務付けてしまえばいい。そうして開かれたお祭りが日本では大東亜共栄圏祭りという名前だったわけだけど、この手のお祭りはいまだに世界のそこらじゅうで、それこそ名前は変わったけれども日本でも随時起こり続けている。コロナ祭りとか。

ではそれよりミクロな共同体、例えば会社やその中の部署では?この規模では、祭りの開催はどんどん難しくなっている。それは昔と違って「別にこの共同体にいなくてもいい」と所属者が思っているからで、昔だったら終身雇用が当たり前だったのでそれこそ国っぽい祭りの開催が容易だった。

今、ミクロな単位で祭りを開催するためには、共同体意識と、楽しさと、ご褒美感を同時に演出する必要があって、それがいわゆるチーム運営というやつなのだろうと思われる。

 

▼チームという共同体について

 

チームという共同体で祭りを開くに当たって、一番イージーなのは「考えさせない」ことだ。これは結構色々と手がある。

・あなたの仕事はこれだけです(他のことをやらないように!)
・上手にできたら褒められます(あるいは、より大きなお金がもらえます)
・上手にできなかったり、他の手法でやってしまった場合は村八分です

とか。ただしこういうイージーな手法を取ると、高確率で祭りの開催者側が村八分にされる。今のお祭りは、主催者が強いわけではない、ということも特徴のひとつだ。

じゃあどうするのか?というのは実は全然回答が出ていなくて、というかそんな回答があったら全てのプロジェクトやチームがうまく回るはずで、それが達成されてしまったらゼロサムゲーム自体が成り立たなくなるので、結局答えはありません。したがってまずは例えば、

・そもそも主催者がめちゃくちゃ楽しそう
・主催者が、より上位の主催者(例えば経営者)から報酬を得ているっぽい
・主催者のゴール達成を、共同体のゴール達成に紐付ける
・ゴールがそもそも「みんなで頑張れば達成できる」っぽい

みたいな手法が出てくる。こうすると、少なくとも「お祭りが成功している」感覚の演出は可能だ。しかし続けて「お祭りに自分が関わっている」ことと、「このお祭りを続けたい」ことをどう感じてもらうか?が課題として出てくる。面白いもので、これらを解決できた時に、お祭りが成功しているかどうかはわからない。帰属意識だけは高まったが全然お祭りとして成功していない、となると、高まったはずの帰属意識は急速に萎む。別にこの共同体に属してなくたって死ぬわけじゃないし、より面白いお祭りを開いてくれる共同体に参加する(あるいは、自分自身でお祭りを開催する)方が全然よかったりするわけだ。

 

まあこのお祭りの主催者が私ですって話なのですが、これは大変に面白い仕事です。20代でこれやってたらキャパの少なさ故に死んでたなと思いますが、今ようやく身の丈にあった仕事になったなーと、やや感慨深い気持ちでもいます。

 

▼共同体に絡めとられる、ということ

つまり何が言いたいかというと、『ミッドサマー』を観たい、ということです。

スカイウォーカーの夜明け/僕は新三部作に何を期待していたのか?(感想)

※「スターウォーズ EP9/スカイウォーカーの夜明け」について、以下ネタバレの記述があります。未鑑賞の方はご注意いただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼これ以上ない「よかったね」感

スターウォーズが終わった。終わってしまった。今後もEP10〜12が作られるらしいけど、少なくとももう劇場へは観に行かないだろうな、と思う。そんなわけで僕のスターウォーズはもう終わりました。劇場で「デデーン!」のファンファーレを聴くこともなくなるであろうことはとても寂しいです。

全体として、めちゃくちゃ「よかったねえ!」という映画でした。映画が良かったという意味ではありません。映像も良かったし、JJはとにかくファンサービスがすごい人なので「ほらコレ!コレEP○○の××ですよ〜!どうスか!どうスか!」っていうものすごい歓待を2時間受けまくる、という意味でとても良かったし、BB-8は相変わらず可愛かったし、音楽は相変わらず最高だし、ストームトルーパーは相変わらず間抜けで愛らしいし、なんといっても「スターウォーズを(一応でも)きちんと完結させるにはこれしかなかった」という意味で、とてもスターウォーズしていた超弩級エンタメでした。

ただ、僕はもう言ってしまいたい。スターウォーズ好きの友人からは批判を受けるのであまり大きな声では言えないけれど、EP9を観て確信した。

 

僕はあのEP8が、あの、文脈の外に飛び立とうとする映画が好きだった。

 

▼スカイウォーカーシリーズが完結してない

あえて何が完結したのかといえば「パルパティーンの物語が完結した」です。だってそうじゃないですか。パルパティーンの孫として、それでも暗黒面の誘惑に負けず(余談だけどパルパティーンが暗黒面に誘う時の描写が「ザッツ皇帝」って感じでとても良かったです)、ジェダイとして歩んでいく、ということを決断したレイが一番最後に「レイ・スカイウォーカーです」って言っちゃってるんだから。あの瞬間にパルパティーンの話は全部終わったんです。スカイウォーカーの血筋は確かにベン・ソロがフォースと一体化したことで絶えてしまったけれど、もはやスカイウォーカーは苗字とか血筋とかではなく「概念」になってしまった。

 

▼伝統・あるいはお家芸について

ジョージルーカスが作った旧3部作は、映画を観ている僕たちからしても、映画の中にいるレイやフィンからしても伝説になっていて、その意味で「歴史は繰り返す」というクリシェを(特にオールドファンに対して)することは、その伝説に敬意を払う行為であると思う。特にスターウォーズは(私も含めて)面倒くさいお客さんがたくさんいる分野なので、意味わからんことをやってしまい炎上してしまうくらいなら、最新の映像でEP6を再現するのが最善であることはわかる。

でもじゃあ、なぜEP9が「相変わらず」で修飾されてしまうのか?

そこに「提示」がないからだ。

 

▼改めてEP8とは何だったのか

EP8には「提示」があった。それが良かったか悪かったかはまさに賛否両論あるわけで、悪かったと思う人からすると「EP8の所為でEP9は伏線回収まっしぐらの忙しい作品になったしまった。JJ頑張ったな、よくやった。マジでEP8は戦犯」となるんだろうなーというのもわかる。確かにEP8が特に新しくもなんともなかったらEP9は筋書きが違っただろうとも思うし、EP8が戦犯扱いされてしまう理由もわからんでもない。

でも僕は戦犯扱いしない。EP8は「新しいスターウォーズ」を提案してきた。そしてそれに乗らなかった人が多かった、というだけだ。僕は正直、この「新しいスターウォーズ」を観てみたかった。フォースや、ジェダイといった概念が拡張して、あまねく銀河に偏在するもの、誰もがジェダイになれる時代のスターウォーズを(ミディクロリアンの設定が黒歴史化するとしても)観てみたかったのだ。なんならレイなんてマジでそこらへんの一般人であってくれても良かった。

確かにEP8も、映画として色々破綻してたり、レジスタンスが軒並みバカだったり、ポリコレ臭がすごいとか、ローズがウザいとかローズがウザいとか色々ありますよ、そりゃ私も手放しでEP8最高とは言いません。でも、新しくなかったですか?僕は今年で31になるのだけれど、プリクエルにしても「ダース・ベイダーが如何に誕生したか」というもの(つまり親父の世代にどう繋がるか)であって、厳密に言えば「僕らの世代のスターウォーズ」ではなかった。EP8にも言いたいことは色々あるけれども、「遂に僕らの世代の、新世代のスターウォーズが始まるんだ!」とものすごくワクワクしたことは、僕の中では揺らぎようのない事実です。

 

▼僕がスターウォーズに求めていたもの

でも結局「劇場でスターウォーズを観る」という経験はいつもそれだけで楽しい気持ちになれるし、今日映画館で観られて本当に良かったと思っている。なんなら帰りにヨドバシカメラで(完全に勢いで)X-ウィングのプラモを買ってしまった。スターウォーズが好きだ。その賛否も、マヌケな帝国トルーパーも、可愛いBB-8も、レイアまで失ってしまって悲しみに悲しむチューバッカも、奇々怪々な宇宙生物も、メカも全部好きだ。

 

完全なるリスペクトを持ったまま、新しい文脈に移行しようとすること(≒自己批判を行うこと)は大変に難しいことだと思う。だからEP8はあんなに荒れたし、EP9はある意味で「戻ってきた」んだと思う。ただ、僕は映画にどちらかと言えばエンタメよりも挑戦と提示を求めているし、その意味でEP8のような、荒削りだけども新しい提示のある、挑戦的な映画が好きだった、というお話です(もちろんこれについても「それをスターウォーズでやるなよ」という批判があるんだろうけど、僕はスターウォーズでやっちゃって全然いいじゃんと思っている)。

 

 ▼追記

多分EP8を観終わった時に書いたメモが出てきたので貼り付け。もう長い文章になってしまったので下記を詳しく書くことはしません。ただ、EP8観終わった時からだいたい感想同じやなーという感じです。

 

◆「最後のジェダイ」と「時代の終わり」

 

→ “あなたたちの知っているスターウォーズは終わりました”という完全な宣言

→ 「ローグ・ワン」が果たした伏線としての役割:フォースという宗教について

 

◆「選ばれし者」から「偏在する素質」へ

 

→ ほうきを手繰り寄せる少年

→ アナキン・スカイウォーカーが見出されたときから、すでにフォースの偏在性は示されていたのではなかったか?「偏在」→「伝説」→「偏在」

「物語を受け入れる」について

◆ヨシムラくんは如何にして瞑想を受け入れたのか

ここ数ヶ月のテーマは「物語を読者や視聴者が受け入れる(許容する)にあたって、必要な機能やギミックは何か?」で、これは友人のヨシムラくんがきっかけだった。

ヨシムラくんは前職で知り合った友人なのだけど、かなり徹底し確立した持論を持っている。形としての言葉で表現するならば「哲学なき規範に鉄槌あれ」だったり、「理解のためには実感が必要である」みたいな(少しズレてる、と彼に言われそうだけども)ものだと私は理解している。私はそんな彼のロックで不器用なところが非常に好きで、たまにそれが故に面倒に巻き込まれたりもするわけなんだけども、全体としてはいつも非常に刺激を受けています。

そんな彼がある時「瞑想」とか「マインドフルネス」とか言い始めたので、大変に驚き、一体どうしてしまったのかとかなり狼狽した。しかし色々と話を聞いてみると、彼の中では彼なりに筋道が通っていて、「理解のための実感」が伴っていた。

とはいえその筋道を他の誰かが同じように受け止められるか、というと多分そうでもなくて、そんなわけで最近のテーマとして上記が持ち上がってくる、というわけです。

 

◆物語を受け入れること:定義

物語を受け入れる、というのは例えば、小説に対して「説得力がある」とか「納得性が高い」とか、大雑把に言うとそういう現象のことをここでは言う。例えば悟空がフリーザを倒すための「説得力」として宇宙船の中での特訓の描写があったり、銃弾を胸ポケットで受け止めることの「納得性」を高めるために、ポケットに入れられるペンダントがいかに大事なものか、と言う描写が挿入されたり、そういう現象のことを言います。

例えば「特筆すべきことはないが、何故か主人公が女の子からモテモテである」ことを物語として受け入れられない面倒くさい人種が世の中にはいて、それが私です。

 

◆物語を受け入れるために:代償行為

物語を受け入れる・あるいはその物語を「正当性がある」ものとして観るためには、ある種の代償行為が必要になるケースが多くあります。スーパーヒーローものの場合、その多くは特訓だったり、大切な人との死別だったりしますが、それは視聴者や読者に対し「彼はこれくらいマイナスな状態なのだから、プラスのことがあってもいいよね?」というエクスキューズでもあります。あるいはダークヒーローの場合は、その(罪深くも)英雄的な行為を正当化する伏線だったりもします。ミステリ等の場合はそれ自体が謎の核心であり、それを如何に上手に隠すか、が腕の見せ所にもなり得ます。

このように我々は(少なくとも私は)「わけもなく◯◯する」を正面から受け入れられず、良い物語にはそのカタルシスの源泉となるマイナスを、悪い物語にはその救済となるプラスを求める傾向があり、どちらかが行き過ぎてしまうと「ご都合主義だ」とか「鬱エンドだ」とか言われるものになってしまうわけです。

 

ー「悲しむものは幸いなり。彼らは慰められるであろう。いつ慰められるのかは誰も言ってくれなかった」(『侍女の物語』,1985)

 

◆「マトリックス」:個人が物語を信じること

キアヌリーブス演じるトーマス・アンダーソンが「ネオ」として覚醒するにあたり、求められていたのが「自分が救世主である」と信じることでした。救世主であるためには、とか救世とは何なのか、は最終的にはどうでもよくなることで、ただ「そういうものなのだ」と受け入れること、それがネオとしての覚醒が求める条件でした。この時、観客も同時に「そういうものなのか」と思わせてしまうギミックがマトリックスという映画のすごいところで、ものすごく単純に言ってしまうと「プログラムをハックする(あるいはオーバークロックする/クラックする)ってこういうことだよ」ぐらいの話なのですが、このへんのシステム的な話とマトリックスの絡みはいくらでも他のブログとか記事があるので割愛します。とにかく重要なのは「ネオが自分の中の物語を信じること」で、ヒーローが誕生したのでした、ということであり、そのことを我々観客も了解した、ということです。

 

ー「最初のマトリックスは完璧な人間世界として作られたと知っているか?そこでは苦しむものはなく、誰もが幸せだった。だが、それは悲劇を招いた。誰も世界を受け入れなかった、」エージェント・スミス(『The Matrix』,1999) 

 

◆「ミスター・ガラス」:世界がそれを発見すること

現代社会が、一見荒唐無稽に思えるような物語を受け入れるためにはどうすれば良いか?というテーマで最近面白かったのは「ミスター・ガラス」だ。例えば「ウォッチメン」では、人間社会が超人を受け入れるためにDr.マンハッタンというギミックが登場した。それまではちょっと強い一般人のコスプレ自警集団にしか過ぎなかったものが「ヒーロー」として認知されたのは彼のおかげであって、その意味では「ウォッチメン」にも特筆すべき点がすごく多かった。しかし(Dr.マンハッタンのオリジンがそれなりに説得力を持っているものとはいえ)それは結局SF的なギミックだったし、ヒーローや人間社会をよりよく描写するための潤滑装置としての面白さだった。(冷戦中の話である、ということも考慮しなければいけないし)

「ミスター・ガラス」はその点、とても真摯に『現実世界におけるヒーローもの:オリジン』を描いていると思う。彼らそれぞれのヒーローとしての特殊能力(怪力・多重人格と暴力性・並外れた知能)が「ギリギリ、超自然的な能力ではない」こと、精神病棟でのカウンセリング(あるいは洗脳)が、観客へのカウンセリング(あるいは洗脳)であること、「自分の能力を信じた」ブルースウィリスが、ドアをこじ開けられたこと。そしてそれら全てが「もしかしてこれは全てサミュエル・L・ジャクソン演じるイライジャが仕組んだだけのギミックなのではないか?」と観客に疑わせること。

イライジャの哲学はそもそも物語を受け入れることだった。曰く「自分のように脆弱な存在がいるのなら、どこかに強靭なスーパーヒーローがいるに違いない」。そして「ヒーローがいるなら、ヴィランもどこかにいるはずだ」。これは前述のプラスとマイナスの考え方に共通する部分があるし、物語を(この場合は半ば妄信的に)信じる力の現出だ。

ヒーローはある日突然オオサカタワーで戦ったりしない。それは最初、ただの異端として、異能としてのみ語られるのだ。それがシャマラン監督の考えるヒーローのオリジンであり、そこに至るまでの過程もとても丁寧に描かれており、説得力があった。極端な話、映画3本分の集約なわけだからそれも当然なのかもしれないけれど。

 

余談だけれど、シャマラン監督のテーマは基本的にいつもここにある。「人々が自分の中に流れる物語を自覚し、その主人公としてのストーリーを歩むために」だ。人気は全然なかったし私も結構しょうもねえなと思って観たけど「レディ・イン・ザ・ウォーター」もこれがテーマだった(そもそもヒロインの名前が「ストーリー」だ。直球っぷりがすごい)。今から思うと私がこれをしょうもねえなと思ったのは、その物語の返報性(つまり特訓とか伏線とか、そういうもの)の不足が原因だったのだ。

 

◆補遺:アメコミについて補足

アメコミ(アメリカンコミック)では、キャラクターは作者のではなく、出版社の所有物となる。日本では「麦わらのルフィ」は原則として尾田栄一郎しか書いちゃいけないけど、アメリカでは「スパイダーマン」はMARVEL社のものなので、マーベルの中であれば別にどこの作品に出てもいい。そんなわけでアベンジャーズとかが成立しても良いことになる。

 

オンゴーイング:日本でいうジャンプの連載みたいな、基本的なお話。アメリカでは多くの場合「いきなりヒーローがヒーローとして出てくる」ため、後述のオリジンが発行されるかどうかは「いきなり出てきたヒーローが、人気になれるかどうか」が結構重要。アメリカンコミックヒーローの生存競争激しい。

リミテッド:オンゴーイングとは別に、独立して語られるストーリー群のこと。多くの場合、ランドマーク(マンハッタンとか、自由の女神とか)が最終決戦の舞台になり、結構ハデな演出がある。

オリジン:ヒーローやヴィラン(悪役)が、「いかにそうなりえたか」を語るお話。オンゴーイングで人気が出たヒーローに、物語の重み付けや深掘りのために書かれることが多い。ミスターガラスでイライジャが死に際に言った「これは起源の話だったんだ」はこれのこと。

 

◆「物語がない」というすごさもある

全然話は変わるけど、今日「天気の子」を観てきた。そこには物語がなかった。戦慄するくらい徹底した、そして異物が徹底的に排除された、ただのボーイミーツガールだった。恋する男の子と、可愛い女の子がいれば、世界とか秩序とか物語とか、そういうものは全て「どうでもいいこと」になってしまうのだった。これにはある種とても感動した。

「どうでもよくないことが増えるということ」と「関係性の中で生きること」みたいなテーマがふんわり浮かんできたので、詳しく書くのはまた今度。

SFの論法類型:ありえない物をありえるようにする方法論

雑文。

 

◆SFの論法

 

神林長平円城塔飛浩隆伊藤計劃など、「ことばそのもの」を対象としてSFを書く人は多い。この場合のSFはサイエンスフィクションというよりもむしろ、思索小説とでも呼ぶべき場合がある。

SFを書くにあたってはいくつかの論法があり、その類型を以下に記載する。

 

◆例えば、「娘から母が産まれた」を可能にする方法論

 

現代の感覚では普通に存在しえない文章があって、それをいかに成立させるか、がSFの一つであったりもする。例えば「娘から母が生まれる」ことは今の所原理的にありえないが、以下の方法を駆使すればありえることにもできる。

 

1:言葉の定義によって

ごくごく単純に、「娘」という名前の人から、「母」という名前の人が産まれた、ということにする。名前というものが意味をなさなくなった世界を想起させる。ディストピアものっぽい。

 

2:文学的意味合いによって

「娘」という客体がいて初めて、母は「母」として存在できるのであり、その意味において「娘」が初めて主体を「母」足らしめた、という論法。SFというよりはどちらかといえば、純文学というか、「そして父になる」的な、母としての成長物語を予感させる。

 

3:SF的ギミックによって

例えばタイムマシン。時間のあり方を歪める科学技術によって、娘と母は再生産をし続けることが可能になりました、という書き方。これはもう時間SFとしてしか存在できない。

 

4:命名規則によって

遠い未来、今でいう「母」が「娘」という意味に、「娘」が「母」という意味に成り代わってしまった世界での出来事、ということにする。これによってお話全体は「どうしてことばの意味が入れ替わってしまったのか」が語られることを運命づけられる。

 

 

◆SFを書くにあたって:びっくりワードの説明

前職では、人の興味を惹きつける言葉を「びっくりワード」と呼んでおり、ワードの中身を説明することで人を納得させ、より深い共感に誘ったり、印象を操作したりすることが営業プロセスの一つだった。SFも(というよりも興味を誘うお話全般も)、冒頭の一文が意味不明であり、そのあと世界観やギミックや謎の提示や解明と共に、冒頭について「ああそういうことだったのか」というように仕掛けられることはよくある。

映画にもそういうことはよくあって、謎解きの最大のヒントはアバンタイトルに隠されていました、とかそういうことがある(SAWの一作目とか)。

 

◆だからといって

SFを書く手法がわかったからといって、自分で書けるかというと別の話だよね、という話。

キャッチ=22/狂気について

精神に破綻をきたした者は、自ら診断を願い出、狂気と診断されれば除隊できる。ただし、自ら己の狂気を認識できる者は、"狂人"とは呼ばれない

 ー アメリカ空軍軍規 第22項

 

よしむら君という友人のオススメでジョーゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』を読みました。

https://www.amazon.co.jp/dp/4151200835/

自分はとても面白くこの本を読みましたが、よしむら君がオススメしてくれた理由は謎のままであり、もしかしたら彼としてはオススメしたわけではなく単純に「知ってますか?」程度のものだったのかも知れません。それぐらいこの本はよしむら君を想像させませんでした。

 

◆落とし穴

タイトルの「キャッチ=22」とは第二次世界大戦中のアメリカ軍規22項のことですが、転じて「堂々巡りをしてしまってどうしようもない状態」を指すこともあるそうです。軍規22項は精神異常による出撃の免除について定めた規定ですが、それがどのようにどうしようもないのかというと、以下の通りです。

 

『もしまた出撃に参加するようなら狂っているし、参加したがらないようなら正気だろうが、もし正気だとすればどうしても出撃に参加しなくてはならない。もし出撃に参加したらそれは気が狂っている証拠だから、出撃に参加する必要はない。ところが、出撃に参加したくないというなら、それは正気である証拠だから出撃に参加しなくてはならない。』(本文86頁より引用)

 

「オアは気が狂っているか」

「ああもちろんだとも」とダニーカ軍医は言った。

「あんたは彼の飛行勤務を免除できるか」

「できるとも。しかし、まず本人がおれに願い出なければならない。それも規則のうちなんだ」

「じゃ、なぜあいつはあんたに願い出ないんだ」

「それは、あの男が狂っているからさ」とダニーカ軍医は答えた。

(本文85頁より引用)

 

この、圧倒的どうしようもなさ!逃げ道であるはずの条項がもっとも兵士を縛るという、文学的搦め手とでもいうようなルール作成には感動しました。

登場人物が全員(上述の軍医でさえ)完全に狂っている上に、時系列やコミュニケーションの順番もバラバラに切り刻まれているため、読者は車酔いのような感覚を覚えながら読み進めるわけで、私もグラグラしながら読みました。

 

◆狂気とは何か?

この本の登場人物は全員狂っていますが、"狂っているとは何か"についてはきちんと考えないといけません。例えば上巻の最後の章は「市長マイロー」で、この人は戦時下に置いて兵役から逃れるために兵站の調達係を申し出るのですが、そのうちに利得に目がくらみはじめ、食料を暴利でふんだくったり、挙句自陣に爆撃をやらかしたりします。

パッと読むと完全にマイローは狂人ですが、マイローの言うことを冷静に読んでみると、この人の行いはあの、(経済学をかじった人には)罪深い「合理的経済人」と全く同様の振る舞いであることがわかります。もちろん合理的経済人は「完全に合理的かつ功利的だったら人間はこのようになるはずだ」と言う非実在のモデル的な存在なので、マイローが合理的経済人であるからと言って、狂っていないと言うことにはなりません。

しかし、後から出てきた行動経済学では、人間の感情や「なんとなく」が経済行動に影響を及ぼすとしており、これが行きすぎると意味のわからない消費行動を引き起こす「狂気」として扱われることになるわけで、そうなると一切の不合理や感情を排したマイローの行いはやはり「もっとも正気な経済感覚のもとで行われた行動」として考えても良いのでは?などと堂々巡りになり、結果として読者がキャッチ22状態になる、という感覚でした。

転職をしました/最近読んだ本

◆転職しました

新卒から6年間つとめた会社を退職し、都内の20人足らずの会社に転職しました。前職はグローバルで5,000名くらいの会社だったので、相当にスケールが小さくなりました。商材も前職の1,000万円〜というレンジから、1契約あたり100万円〜というレンジになり、それに反比例する形で営業やカスタマーサクセスのスピード感が異常に早い、という経験をしています。家は大須観音から三軒茶屋に引っ越したので、ブログのタイトルも変える必要があります。転職から二週間経ったので、なぜ転職に至ったのかを書きます。

 

◆「わかってやっている感」を大事にしたかった

半年くらい前から、自分の会社が何をやっているのか、何をメリットに何を売って、これから何のメリットをお客さんに与えることができる(見込みも含めて)のか、よくわからなくなることが増えました。自社やサービスに対するネガティブな世の中の物言いに、アテられていたのかも知れません。

会社の体が大きいからなのか、上意下達の下手くそさからなのか(多分両方)、従業員に対してのアカウンタビリティを満たしていない状況が長く続き、「自分は、自分の会社のこともよくわかっていないのに自信満々に働けるのか?」と考えるようになりました。同じような考えに至った人の中には、「じゃあ会社の中枢に食い込もう、改革しよう」という人もいましたが、自分はそういう発想を実行に移すビジョンがありませんでしたので、必然的に「会社を離れよう」という結論に至りました。

で、転職するにあたって、「何をやっているのか、これから何をやるのか、納得できる商売をしているか」の軸で会社を探していたところ、今の会社にたどり着いたという経緯です。

今の会社は、ある程度一般化してきた(けどまだ世の中の常識というほどではない)技術を使って、既存の人力労働を自動化しよう、というビジネスをやっています。もちろんプログラミングの中身まで何が書いてあるか、とかは流石にわかりませんが、人数も少ないことから、誰が何を考えてどういう意思決定をしているのか、前職よりも格段に見えやすい(かつ、意見がとてもしやすい)ので、転職してみてよかったなあ、と感じています。

 

 

◆非バトルタイプとして

前職で5年間、高額なIT商材を売り歩いてみて、振り返ってみて思ったのは「自分は戦闘タイプではない」ということでした。これは別に絶望的な気付きというわけではなく、むしろ非常にストンと腹落ちしました。自分はバトルタイプではない、RPGのジョブで言えばむしろモンクとか、ヒーラーに近い役回りの方が、自分の周りの世の中がうまく回るかも、と考えたのです。何も非戦闘タイプが"戦っていない"というつもりはありません。剣を振らなくても、銃を撃たなくても戦うことができる、という気付きは自分の中ではとても大きく、それは戦闘職を5年やってみたからこそ気付けたことなので、あらゆる意味で前職には感謝しかありません。

で、今なにをやっているかというと、「カスタマーサクセス」の仕事をしています。長期的には自社サービスを使った顧客の成功に寄り添い、課題を見つけてきてさらにサービスをよくする、みたいなことですが、なにせ現状はまだ顧客の満足度を測ったり、顧客の成功のKPI をどこに置くか、みたいなこともこれから決める、という感じなので、日々あたらしくやることが見つかる、みたいな状態です。自分が納得するように、会社が納得するように、顧客が納得するように、考えることばかりなので非常によい環境だと思っています。

 

 

趣味の話。前職をやめて一週間、有給休暇を消化していたので、本を読む時間が豊富にありました。以下は3月から今までで読んだ本。

 

◆マーヴィン・リン:KID A

趣味→音楽。2000年のradioheadのアルバム「KID A」について、あらゆる角度から分析を行ない「KID Aとは一体なんだったのか?」を解き明かそうとする試みの本です。この本でKID Aの全てが解き明かされた!という感覚は正直あまりないですが、確かにKID Aのリリース当時には私はThe Bendsがradioheadの最高アルバムだと思っていたし、ブリットポップにどっぷりはまっていたし、weezerも大好きだったので(この本の中で、リヴァースがradioheadの音楽を理解しなかった人として紹介されていたのも面白い。曰く「(radioheadの)サウンドは、MUSEに似てると思う」)、今更になって思うけど「なんでKID Aのことを好きになって、今でもすごく好きなのか?」はこの著者とすごく共有できたと思います。「僕は本当にこの作品が好きなんだろうか、実は闇雲にレディオヘッドを崇拝しているだけなのでは?(本文:75頁より引用)」。

時間が経って、その間受容し続けて、結果として好きになったり良さがわかったりする、というコンテンツがある。私の中ではradioheadがそうだし、例えばタルコフスキーがそうだし、例えばグレッグ・イーガンがそうだ。それが他人にとって最後まで意味のないものだったとしても、自分が好きならば仕方ない。面倒くさい人種には、キャッチーなだけではだめなのだ。

「俺達は陰謀論者じゃない、これは本当に起こっていることなんだ。

金を持って逃げろ!」(Idioteque / radiohead

 

◆ケン・リュウ:生まれ変わり

趣味→SF。「紙の動物園」でSF三冠を達成した作家の短編集。文体が非常に心地よいのと、題材や発想の新奇さがすごい。中でも「生きている本の起源に関する、短くて不確かだが本当の話」をとても面白く読んだ、ここ2年くらいの自分のSFトレンドが「ことばと理解」にあるからか、飛浩隆円城塔中島敦とかとの共通点を探してしまう。そう言えばこの手の最高の話は飛浩隆の「自生の夢」という短編だと思う。多分このジャンルにはまったきっかけは伊藤計劃の「虐殺器官」からだと思うので、身近なSFファンと語り合いたいけれどもSFファンの友達が見つかりません。

「文章にこめられた意味は常に、読み手がすでに持っている知識や予想によって、解明される」(本文163頁、ルイ・メナンドの言葉より引用)

 

冲方丁:マルドゥック・アノニマス

どんどん面白くなるSF長編。巻を追うごとに人物の(主にバロットの)心理描写が繊細になってきて、たまらない気持ちになる。またどんどん頼もしくもあるので、スクランブルの最高潮(ブラックジャックのシーン)に近いコミュニケーションが随所に出てきて非常にワクワクする。早く5巻出てくれ・・・!

 

◆伊藤洋志:ナリワイを作る

転職について考え始めた時に実家に置いてあるのを見て、3月に購入して読みました。先述した戦闘タイプとか云々の話は、この本からかなりインスピレーションを受けました。

 

◆ニック・メーダ:カスタマーサクセス

仕事の本。趣味ではないので特になし。大変勉強になるし、仕事中にこの本のことを思い返したり、読み返したりよくします。カスタマーサクセスの土壌がない(これから作っていく)フィールドにおいては、教科書的な存在になってくれています。とはいえ道を知っていることと、実際に歩くことは全然違うことなので、日々模索です。

近況/考えること

◆理解とは何か?

ピーター・メンデルサンドの『本を読むときに何が起きているのか』を読んだ。

https://www.amazon.co.jp/dp/4845914522

 

我々が「理解」と呼ぶものの、なんと儚く頼りないものかを非常によく教えてくれる本だった。本を読むことで得られる理解は百者百様であるということ、ひとが「理解」と呼ぶものは、自分の文脈に照らしたときの理解でしかない、ということを繰り返し教えてくれる本だった。

だからこそ、人を理解する/少なくとも「相互理解できた」とお互いが思い込む(回りくどい言い方になるけども許していただきたい)ためには、より多くの人との共通点を持たなければならない、ということを再度実感した。あらゆる人との共通項を持つことで、あらゆる人との愉快なやりとりや関係が生じるはずだ。

真なるオリジナリティを前にして、他人は果たしてそれを理解できるのか?という主題は円城塔の時にも書いたけれども、完全な相互理解などあり得ない、ということを理解することは人とのコミュニケーションを少し楽にすると思う。ATフィールドのようなものだ。

 

◆洒落がわかる、ということ

ところで、例えばなしとしての『ATフィールドのようなものだ』とは何か?を理解できる人については、上の段落は「ああそういうことね」となる。理解できない人については、ATフィールドについて検索していただき却って手間となり、しかもエヴァンゲリオンの考察サイトとかに飛ばされてそもそも何のことを考えようとしていたのかがわからなくなる。これが対多コミュニケーションの難しいところで、理解を助けるためにした例え話がまったく役に立たないどころか、却って理解の足枷になることがある。だから『わかりやすい例え』の代表例として異性の話をしやすい、というのが対多数と対個人のコミュニケーションで差分を作ることをサボったおっさんの末路だったりする。

 

 

◆零號琴について

私のものごとの捉え方やコンテンツの受容、そして他者への評価において大きな位置を占めるのは上記の「洒落がわかるかどうか」だ。

判断基準としては結構ありふれており、平安時代からこの判断軸はある。藤原定家がルールを作ったとされる『本歌取り』という手法がそれだ。『本歌取り』は、似たような情景や気持ちを詠った短歌において、有名な歌人や短歌から句を持ってきても良い、あるいは持ってくることがあはれとされる手法で、これをやると周りの人から「ヒュ~、わかってる~」となるアレである。現代ではラップの世界で『サンプリング』としてよく知られるが、この「文脈において気の利いた洒落を言うこと」が私のコミュニケーションにおいてはかなり重視され、私がすべてのコンテンツの受容者であり、あらゆる人との共通の趣味や共有事項を作りたい、と考える根っこはそこにある。

 

飛浩隆の『零號琴』はまさに、「この本に含まれているものを、読者はどこまで想像できるか」という本であり、その意味で2018年のベスト小説であったと思える。

https://www.amazon.co.jp/dp/4152098066/

 

とにかく多くのオマージュやパロディ、サブカルチャーの意匠のオンパレードである。豪華絢爛なSF的悪戯けの極北とでも言うべき小説であり、アニメや特撮、漫画、そして何よりもSFファン以外には1ミリも受けないこと必至な小説であり、つまり完全に私向けの小説だった。

とはいえ、その意匠を100%の純度で享受できたのかと言われると全然自信がない。零號琴の世界では『想像力』が非常に重要なキーワードであるのだが、作者と読者の想像力がバランスする(つまり、作者が想像することを読者がある程度正確に想像する)ことができて初めて小説としてメッセージを持つ作品だった。『想像力』は転じて『創造力』となり、つまり作者と読者が共同して『創造』したものだけが本の中に現れる。そして共通の『想像力』が働かなかったものについては存在しなかったことになる(あるいは、『創造されなかった』ことになる)。

 

この構造は二重の意味で恐ろしい。ひとつ目は、共通の想像力がなくてもその小説を文章として読み進めることはできるし、しかもそれで物語としてきちんと完結してしまうからだ。料理に何が含まれているか知らなくとも、その料理で満腹になってしまえるように。どのような技術に支えられているかわからないまま、インターネットで物を買ってしまえるように。我々は一体どれほどの物事を見過ごしながら、どれだけの人間と共通認識を作れないまま、分かり合えないまま人生を送ってしまうことができてしまえるのだろう?

そしてもうひとつの恐ろしさは、あろうことか、読者の想像力が作者のそれを超克しうる、ということだ。作者が仕込んでいない仕掛けを、読者が自分の想像力でもって勝手に『創造』し、物語の枠組みの中に組み込んでしまうことがこの本では構造上、可能である。零號琴に限ってはこの現象は「作者の意図を読み違える」ことにはならない。読者が想像しうるものは何であれ創造されてしまう、という構造を、作者の飛浩隆氏は作成した。

 

 

ではこの本を『理解した』とはどういう状態のことを言うのか。

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